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技術

誤字を振動で伝えるハイテクペンLernstift

クラウドファンディングサイト Kickstarter に登場した Lernstift は、間違ったスペルを書いたら震えてそれを教えてくれるというペンです。

子供が宿題をしていて、気づかずに次々と間違った綴りの単語を書いているのを見た発案者の妻が、「この子には間違えるたびにすぐに教えてくれるペンが必要ね」と思ったのが発端だったとか。

ペンにはモーションセンサーが内蔵され、ペンの動きにあわせて持ち主がどんな字を書いたかを認識します。

lernstift-inside

ペンには、綴りの間違いを指摘してくれる Orthography(正字法)モードと、筆記体の読みやすさを判定してくれる Calligraphy(書道)モードの二つがあります。また、技術的な延長線上には文法をチェックするモードも考えられ、いずれは追加できるだろうということです。

対応言語は、まずドイツ語と英語、続いてヨーロッパの主要諸語が予定されているということですが、文字認識ソフトウェアのトップ企業から40言語以上のデータをライセンスしているということで、より多くの言語に対応したいということです。

フィードバックを早く得ることで、間違いを早めに正してより早く習得することができそうですね。人類があと何年ペンと書き文字を使い続けるかはわかりませんが、移行が済むまでは、子供たちもまだまだ手書きと綴りの技能を練習しないといけないですし、面白い商品ではないでしょうか。

via Lernstift – A pen that reacts to spelling mistakes | Ufunk.net

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ネットの事件

「夜10時以降のネット禁止」を破るために両親に睡眠薬を盛った少女二人が逮捕される

親から受けた「夜間のネット禁止」のルールを回避しようとして、親に睡眠薬入りのミルクセーキを飲ませた15歳の娘とその16歳の友達が、アメリカ・カリフォルニア州ロックリン警察に逮捕されたそうです。

milkshake

この娘は、夜10時になったらネットにアクセスしては行けない、というルールを「厳格すぎる」と思い、10時以降にインターネットを使いたいというだけの動機で、両親にシェークを奢ると提案し、買って来たチョコレートバニラシェークに砕いた睡眠薬を入れて渡したということ。両親は、「何か味がおかしいし、固形物が混ざっている」と感じながらも4分の1ぐらい飲んでしまい、そのまま寝落ちしてしまったとか。

少女たちは望みどおり、親に邪魔されずにネットを楽しんだようですが、翌日未明に二日酔いにも似た症状で目を覚ました両親は、朝を待ってロックリン警察に行き、ドラッグテストのキットを5ドル(550円)で入手、自分たちに使うことで、自分たちが薬物を盛られたことを確認、そのまま警察に通報し、その結果として少女たちは来週月曜にjuvenile hall(少年院)で審理される予定です。

ちなみに、ドラッグテストのキットは、子供がドラッグをやってないかどうかチェックするために親が良く使うのだそうで、それを警察署で買えるなんて、さすがアメリカ、という気がしますね。

そんなにまでして夜中に使いたかったのがいったい何のサイトなのか、ニュースでは明らかにされていないのですが、睡眠薬の効き目には個人差もあるでしょうし、他に飲酒などしていれば命に関わることだってあるでしょう。もしこれを大人がやれば重罪は確実ということですが、未成年ということで名前は伏せられていますし、刑務所行きということは無さそうです。

母親によれば、以前にも一度、似たようなことがあったということで、既に睡眠薬を盛られているのではという疑いがあったとのこと。この母親は、親に薬を盛るのは良くないことだと娘が学んでくれるといい、というコメントをしています。以下はこの事件を伝えるニュース映像。


(掲載停止により動画リンク変更)

15,6歳ぐらいだと、大人のような知識を持っていることもあれば、どこかで常識に欠けているというアンバランスな状態の子供も多いかもしれません。それにしても、ネットを使いたくてこんなことをする、というのは驚きですね。

via Gawker and KCRA

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育児

[子育てエンジニア advent calendar] 親が決める、子供とネットのプライバシー

このブログは子育てエンジニア advent calendar 2012に参加しています。が、あんまりエンジニア要素なかったごめん。


「赤ちゃんが産まれました!」と子供のプライバシー

ツイッターで「無事生まれました」等で検索すれば、昨日今日生まれたばかりの赤ちゃんの写真や、その親のアカウントがわかります。もう少し後には、つけられた名前もつぶやかれるでしょう。

自分の子供が産まれる、というのは、それまでの人生でも一、二を争うビッグイベントですね。毎日のようにツイッターなどソーシャルメディアで日常をつぶやいているなら、これこそがつぶやくべき日常の代表格、かもしれません。

しかし、いったんつぶやいた内容は、ソーシャルネットワーク本体にはもちろんのこと、検索エンジンや他のwebサービスに蓄積され、未来も残り続けていきます。今現在は、技術的な制約からかコスト的な理由からか、あまり昔のツイートは探しにくくなっていますが、削除してないツイートはツイッター社には残っているでしょうね。

今すぐにどうなるという話ではないのですが、今産まれた子供は、10年後、20年後には、名前や誕生日はネットを調べれば当てられる、という時代になるのではという気がしています。

誕生日が知られて何が悪い、という人もいるでしょうけれど、僕自身は誕生日はネットに出してませんし、誕生日を要求してくるwebサービスに入れている誕生日は全部でたらめです。

そのように自分の誕生日を隠す一番の理由は、誕生日を本人チェックのために使ってくる企業やサービスがあるからですね。僕の誕生日を知っているだけの人に僕のなりすましをされるのは困るなあ、ということ。

楽天ローソンの例は、身近で有名な企業だから問題が大きくなった(といってもネットの中だけかもしれませんが)のであって、日常的に電話口でフルネームや電話番号、誕生日を答えるだけで本人だと認証されることは他にもあるように思います。

一番いいのは、本名が知られても、電話番号が知られても、生年月日が知られても、そんなことでは他の誰にもなりすますことができない社会なのですが、今生まれたこどもたちが大きくなって自分の名前で契約をしたりするまでに、この問題は解消しているのでしょうか? 何か別の方法で安全に個人が特定の個人であることを証明できるようになっているのでしょうか?

子供の情報をどこまでネットに出すか

とは言いつつ僕も、具体的な日付は出してませんが、何年の何月に産まれた子供か、ぐらいはちょっと調べればわかりそうです。産休を取るときに、この社員ブログが何ヶ月も止まってしまうために、ブログが止まる理由として産休であることを公開してしまっています。それに、直接産まれたとか書かなくたって、つぶやいている内容の変化で、どのへんで産まれたかを予想することもできるかもしれません。

本当に何か悪意を持って追う人がいたらしょうがないのですが、そのあたりは家の防犯や自転車の盗難防止と同じで、あまりに簡単そうだったら悪い気を起こした人を呼び寄せるけど、ちょっと面倒にしておけば隣のもっと簡単そうな方をターゲットにするだろう、という面もあるとは思います。

産まれた日の感動を伝えたツイートやブログもそうですが、毎日の成長を写した画像なんかも、ネットにアップして友達にみてほしいですよね。そんなもの見せられても他人はそれほど嬉しくない、のは過去の経験からわかっているけれども… 昔なら年賀状の家族写真で見せてたところを、今はソーシャルメディアで何十枚でも見せることができます。

そうやって出した情報や写真が、自分の想像外の範囲まで流れていくというのがネットの怖いところです。FacebookやGoogle+で公開先を細かく指定して、見せる相手を限定するというのは一つの取りうるレベルでしょうね。でも、既に僕たちは、知人の中のうっかりさんが、元が限定公開なのに気づかず広くシェアしたり、別の場所で「○○さんに赤ちゃんが産まれたんだって」とつぶやいたりするのを知ってます。よく知らない人を友達認定している人たちならなおさら起こるでしょう。

ジョークグッズだよこれ

そんなわけで、子供の写真を載せなかったり、子供の写真をぼかして載せたり、というブロガーもいるわけです。あきらかに自宅や近所の場所がわかるような背景の写真は公開しない、というようにしている人もいます。

名前なんかについても、たとえば、ブログ上では長男を「チョーナン」、次男を「ジナン」と呼ぶ、なんて書いている人もいますが、これも一つのアイデアですね。ネット用のあだなを持たせることで、実名バレを防いでいます。うちは、妊娠中期ぐらいから仮の名前をつけてたので、しばらくは「フランソワーズ」「セバス」というを使ってましたが、これだと結局毎回説明しないと誤解されてしまう(ハーフなの? とか)という問題があります。

出すのが正しいとか、出さないのが正しい、ではない

自分の中では、「一貫しているか」がひとつの基準ではあります。僕自分が、住所も生年月日も学歴も人種も、その他いろんなことをネットに公開していない、いわゆる「匿名傾向の高い」ブロガーであるのに、自分の息子や娘には本人の同意も取らずにそれをしていいのか、というのが一つの考える手がかりでした。

ただ、ネットに出すことの素晴らしさ、というのが反対側にはあります。ネットでブログを書くことが仕事になっているぐらいですから、ネットに情報を出すことによっていろいろな素晴らしいことが起こるというのも知っているわけで、その素晴らしさを子供に与えなくていいのか、という葛藤も、無いわけではありません。

たとえば、僕は友人でもあるたつをさんのブログを長いことRSSリーダーで購読していますが、たつをさんのブログにはここ最近、毎日のように「とらちゃん」の様子が、顔出し写真と共に出てきます。「とら」は本名ではないのでしょうけど。赤ん坊のころからすくすくと育つ様子をいつも見ているので、実際には一回も会ったことがないのにも関わらず、とても親しみを感じています。ショッピングモール等で偶然会ったとしても、とらちゃんだとわかるでしょう。

何千人のネットユーザーが知っているなら、それはもうテレビの子役みたいな存在に近いですし、僕だけでなく、小さい頃から多くの大人に成長を見守られていることは、長じて大きな本人の財産になる可能性もあるでしょう。

たつをさんは、子供が産まれたから記録を公開し始めたわけではなく、十年以上前から、自分の生活のまわりのあらゆる小さなことを記録し、公開し続けています。自分は隠れて、子供だけ前面に出しているわけではないのです。これも一つの「首尾一貫」かなと思います。

実は、親(自分)と同じなら正しいとか、ですらない可能性もある

というように、僕としては、「自分がされたいように扱う」のが一つのやり方だと思う反面、親が自分と違うように子供を扱っても、それはそれでいいのでは、と思う気持ちもあります。自分が子供時と今の子供では、ネットの存在はもちろん、あらゆる環境が違うわけです。

今大人な自分は、ネットに対してこういうアプローチで生きているけど、子供の環境は将来こうなっていくだろうから、「いろいろ公開するけどこれとこれは隠す」、でも、「自分とは違うポリシーで情報を出していこう」、というのだって、それは一つの考え方で、後々にそういう自分と違う扱いをしてよかったなあ、と思うことになるかもしれません。

じゃあ結局なんでもいいんじゃないか、と突っ込まれそうですが、せめて子供に後で愚痴られた時に、「これこれこういう風に考えて、結果的にこうしたんだよ」というのが言えればいいのかなと。どういう方針が子供の将来にいいかなんて、とても予言することはできないけれど、外れたとしてもそれなりに考えた上で決めた事なんだよ、と言えることが最低ラインなのかな。あとはもし判断が間違ってても許してほしいなあ、許してくれないかなあ、というところです。

いずれ文章が読めるようになったときに、この記事を見つけて「どうでもいいことに悩んでるなあ」と笑い飛ばしてくれればそれで十分かも。